Timeline
 少年時代   青年時代     而立     米国時代   欧米時代   而知天命 
子曰、 「吾十有五而志于学、 三十而立。 四十而不惑、 五十而知天命、 六十而耳順、 七十而従心所欲、 不踰矩」


生まれ育った地

 百済村神主……。名前の由来を調べたことはない。1400年前、聖徳太子の時代に百済川のほとりに、百済大寺を造営したと歴史にある。村の鎮守の小さな森の中にある春日神社の境内に三重塔がいまもある。このあたりにまぼろしの百済大寺(くだらおおでら*)があったのかもしれない。その隣には、その時代から1400年もの間生きてきた亀が住むといわれる神秘の池がある。そしてこの池の反対側には、子供たちの遊び場だった「タイショッカン」がある。伝え聞くところによると大化の改新(645)で功があった藤原鎌足(中臣鎌子)が「大職冠」という冠位を賜ったことを記念して建立されたものだという。戦前まで、純銀で鋳造された観音像が奉納されていたが、戦争中に消えてしまったという話も聞いた。軍への供出を避けるために誰かが隠したとも言われるが真偽はいまだに分からない。

*639年に舒明天皇が、聖徳太子の遺言により造営を始めたわが国初の官寺(国立寺院)で、飛鳥地方に7世紀に建立された寺院で唯一、所在地が全く不明な寺(日本書紀に記載) 「さらら紀行」:舒明天皇の時代を読んではじめて、私が生まれ育った地に「百済大寺」があったのではないかという説を知った。自分が生まれ育った地の謂れなどにはまったく関心がなかった。現在は、「さらら紀行」によると、1997年から発掘調査が始まった「吉備池廃寺」が「百済大寺跡」だと確実視されているとのこと。

田舎の腕白坊主から、学び働く少年へ……

 子供時代の記憶は薄れている。歳をとると子供時代の記憶がよみがえり懐かしく思うというが。これから少しずつ思い出して書いてみようと思っている。母や妹の話にでてくるのは、書くのがためらわれる「悪い子供」の話が多い。小学生の低学年までは悪ガキで近所の人から苦情が多かったとのこと。本人はまったく記憶にない。ただ、その証拠が古い通知簿の家族通信欄に残っているで認めざるを得ない。いづれ覚悟ができたら書こうと思っている。

 悪ガキが生まれ変わったのは小学校4〜5年生の頃だと記憶している。ある事件がきっかけだったが、これも時効が来たら書こうと思う。人間、自分に都合の悪いことや恥ずかしいことは表沙汰にしたくないのが人情だとご理解いただきたい。とにかく、小学高学年からは、村の人から「まじめな少年」との評価をいただくことになったと記憶している。

 その頃から中学時代にはいくつかの仕事を経験したが、おじいさん、おばあさんの「夜なべ」の手伝いをして「おこづかい」をもらったのが、「仕事をして金を得る」ということを知った最初である。「夜なべ」の中心は、縄を編み、ぞうりを編むことであった。納屋の裸電球の下で祖父母と過ごした記憶は今も鮮明に残っている。貧しかったが、自然とともに生きる家族のぬくもりがあった時代である。祖父母の教えは、その後の人間形成に大きな影響があったと思う。

 ・付き合いは大事にせなあかん
   (村八分の怖ろしさが記憶に残っていた時代の教訓か)
 ・人に迷惑かけたらあかん
   (人間ひとりでは生きられないが、他人に頼らずに生きる)
 ・上を向いたらあかん
   (後年になって「高瀬舟」を読んで「足るを知る」の精神を知った)

 この三つの教えは、いまも座右の銘となっている。

 中学時代のアルバイトで印象に残っているのは、野球の硬球つくりである。瓢箪の形をした二枚の皮を「やっとこ」で引き伸ばして、硬いゴムでできた球体に巻き付け、縫い合わせる仕事であった。一個いくらの歩合制であったが、いくら稼いでいたのか覚えていない。日曜日は、朝5時から暗くなるまで土方仕事もやった。肉体を酷使するが、収入は一番高かった。

小学生・中学生のときに聞いた懐かしい歌

鐘の鳴る丘 作曲 古関裕而 作詞 菊田一夫 唄 川田正子 1947年
月の砂漠 作曲 佐々木すぐる 作詞 加藤まさを 1923年
青い山脈 作曲 服部良一・有・作詞 西条八十・有・唄 藤山一郎・奈良光枝 1949年
赤いハンカチ 作曲 上原賢六 作詞 萩原四朗 唄 石原裕次郎 1962年
アカシヤの雨が止む時 作曲 藤原秀行 作詞 水木かおる 唄 西田佐知子 1960年
有楽町で逢いましょう 作曲 吉田正 作詞 佐伯孝夫 唄 フランク永井 1958年
月の法善寺横丁 作詞 十二村哲 作曲 飯田景応. 唄 藤島恒夫 1959年
北上夜曲 作曲 安藤睦夫 作詞 菊池規 唄 和田弘とマヒナスターズ 1961年
上を向いて歩こう
高校三年生 作曲 遠藤実 作詞 丘灯至夫 唄 舟木一夫 1963年